昭和44年05月14日 朝の御理解
御理解 第48節
「わが子の病気でも、かわいいかわいいと思うてうろたえるといけぬぞ。言うことを聞かぬ時に、ままよと思うてほっておくような気になって、信心してやれ。おかげが受けられる。」
なかなかぶ信心ではこういう気持ちにはなれませんではいけないね。やっぱり我が子の病気と言うと可愛い、又は最悪の場合を連想する。もしや万一と言った様な心です。ですからうろたえる。そういう時にうろたえんで済む信心。これは病気だけの事ではない、わが子の病気というだけの事じゃない。全てのおかげと言うか、全ての幸不幸の別れ道と言うかねそういう岐路に立った時、おかげの道を歩るくか不幸な方へ、困った事へいよいよなって行くかという。そういう大事なところです。
今日私この四十八節を頂いたのは、始めこの四十九節、そこんところと四十八節と言うところを頂くんです。四十九節というのは、これは始終と言う事はいつもという事。信徒教励会にある教会の総代さんが、ずっうとこの連合会で回りますよね。多いところは何十人も来る。来ないところは全然来ないけれども。そこの教会は総代さんが必ず一名出られる訳です。それで「お宅の教会何名ですか」と言われると、「始終一名」と言うわれる。いつも一名と意味を申し上げて言われる訳ですよね。
「私の方はいつも私だけだ」と言う様な意味で、四十九節とゆう事はいつも苦労と、四十九といゆう事はいつも苦という事。だから四十八とゆうのは、四十八とゆうのはいつも八というのは末広がり、いつもがおかげを頂く段階にいつもある。今日よりも明日。何かあればあるでその事が必ず末広がりになっていく、おかげの頂けれる状態にいつもあると。始終はち。そういう事から頂いております。ですから四十八と四十九は、もう言わば紙一重でしょう。四十八と四十九は。と言う様に幸と不幸というのは紙一重なんだ。
ちょうどこの四十八節にぴったり来るようなお願いが、昨日ありました。昨日午前中奉仕しておる時でしたが。勿体島から小西という人が参って来ます。最近忙しいか何んかでもう殆ど参ってきません。娘さんが熱心に参って来ます。高校へ今年から行きよりますが。久し振りに昨日お参りして参いりましてから。「悲しい時だけ参って来てからすみません」というてから参ってきました。昨夜昨日の晩夜中から、一人息子がおりますから、それが急に腹痛を訴える。しかも大変に苦しむ。
そこで後で気が付いたんですけれども、あれが以前に熱心に椛目時代に参って来てましたから、その時ならばもう何を置いても「さぁ早よ御神米御神酒さん」と頂かせて、おかげを受けたんもんですけれども。今頃信心が遠のいてしまっておるもんですから。とにかくそのうまぁ先ず医者と言うので、そのう「金光様のコの字も思い出せなかった」と言うのです。それで電話を掛けましたけれども、どうしても電話が出らない。とうとうあのう不安憔悴の中に夜が明けて、初めて医者へ参りました所が。
これは手術をしなければいけんと言う事になった。さぁその時初っめてそのう金光様にお願して行こうという気になって、実は参って来たと言うのである。「先生手術したもんでしょうか。」と言うから「そら手術せじゃこて」私が言った。医者に掛って医者が右と言や右。左と言や左。手術。その為に医者に掛った野じゃないか。医者が薬飲めと言うなら薬も飲まじゃこて。痛いけれども注射すると言や注射もらわにゃいくまいがと。それが信心だ。手術せなんらんなら参ってこにゃよかったちゅうごたる顔をした。
親先生が「そりゃあ手術せんでよかばい。おかげ頂くばい」と仰りゃもうそれに縋ってもう手術はするまいとこう思うて来たのに、「手術せじゃこて」と言われたもんだから、もう突き離された様にがっかりした顔をするんですよ。だからね信心がこの様な事に行使されるとするとこれは大変ですよねえ。自分の都合の良いようになれば神様。合楽にお参りすりゃあ薬を飲まんでんええ。合楽にお参りをすりゃ手術せんでええと言わっしゃるかも知れんから、只そこに一涙の望みをかけて参って来ておる。
だから「手術せじゃこて。医者にかかったら医者の言う通りにせじゃこて」と言われたから、だからもうつき離されたような思いなんですよね、母親としては。取り付く島がない。それからまぁいろいろお話させて頂いてから、最後に申しました。「小西さん。神様にね。お願いをして私がお取り次ぎをして、手術をするのだから心配はいらんよ」と言うてからはぁ参ったごとあったという顔をする。不安でたまらん。だから医者に掛らじゃごて、手術せじゃこてと言われたら、もう突き離された様な表情をする。
何と冷たい事じゃろうかと思うただろう。けれども私が段々お話しさせて頂いて、けれどもねお取り次ぎを頂いてお願いをして、薬を飲むのであり手術をするのであるから、その事はだから心配はいらんよ。そして「まぁ万が一たいねぇ手術をさして頂く積りでやらして頂いたら、こんもんならば手術せんでよかばいと言わっしゃる位におかげ頂きゃ別よ」て、そこから又お縋りせにゃという気が起こる感じです。私はいつも幸せ。いつもが苦労と、四十八と四十九は紙一重。
そういう考え方がですね。いわゆる幸と不幸が紙一重であると言う事をです、自分の心次第でいつも、四十八にしておれれる信心を、頂いておらければならないという事です。 昨日高橋さんの所の元職人をしておった、竹ケ原というのが久しぶりで参ってまいりました。もうそのまま高橋さんのところから無断で出ましてね、今のはやり言葉でゆうなら蒸発したんです。音信不通です。
そしてある時それこそプツッと葉書が来たんです。「私の家に残しておる荷物の事やら、お金やらまだ一万四、五千円か何か通帳に残っとる。それは合楽にお供えして下さい。その荷物は適当に処分して下さい。」まるきりもう本当に蒸発してしまうような感じですね。熱心に参って来とりました高橋さんと一緒に。それが昨日ひょこりあのう皆さんが御用中でしたが、その時参って来ましてから、その後おかげを頂いてやっぱりいつも思う事は、そのう福岡の大将の事。合楽の金光様の事。
困りゃ困るでやはり金光様を唱えさせて頂いて、現在徳山そのうでおかげを頂いておりますとこう言う。そしていつもそのお夢を頂く「そらそうじゃろう。あげん大将がちゃんとあんたん事はお願いしつづけておられる。高橋さんが「どうしたもんだろうか」とだから「放っときなさい。そして神様にお願いしてやりなさい」と言うて、あんたの事は普通であったら、これは本当に心配さぁ警察にも言わななるまい、どうせじゃなるまい事じゃろうけれども、神様に御縋りをしての事であるから。
放といていいと私が言うて今日迄及んだがね、祈りは絶えず送られておるはずだから、あんたがおかげ頂くはずだと。それがいっつも合楽の教会の事。三福のお鮨屋のそのう高橋さんのところの事をお知らせ頂いてね、こちらへ何日か前に帰って来ておる。その朝もお夢頂いておる事がですね。合楽のお広前にお引き寄せ頂いておる。親先生が御結界についておられる。ずぅっとこう弓なりに弓のような感じで、私、三福の大将、それから秋永文男先生。まぁ自分の知っておるご信者さんが、十人位並んでおられる。
私はその一番右端に座らせて頂いとりましたら。親先生が御結界から丸ぅい手鞠のような物をですね、そのうつらぁとこう私目当てにこう転がして下さった。それを頂いて又お返しするとそれを又次の人へサアーッとこう、転がして下さるというお夢だったというのである。昨日ちょうど高橋さんもここに見えておられましたから。期せずして高橋さんとも面会が出来たで、その事を話しましたから、それは親先生にお届けせろと言われたからと言うて、昨日お届けしてますもん。
ですからそのう信心というのは、何を願い何を求めてのものでなからねばならないか。信心しているからおかげをついて来るんだというだけであってね、おかげ頂くから信心するのだいうのじゃないんだと、信心をするからおかげはついて来るんだと。ならその信心とはどういう事かと言うと、天地書付「生神金光大神天地金乃神一心に願え おかげは和賀心にあり 今月今日で頼めい」一心に和賀心にならして頂く事を願う事が信心なんだ。「商売が繁盛致しますように。病気が治りますように。」
というのは枝であり葉である。それは誰しもそこから信心に入って来るけれども、段々お話しを頂いていきよる内に、これは信心信心それが当然私共がです、天地の中にこうして御恩恵の中にお生かしを頂いておる、人間氏子としてみればです当然の事。その神様に対する神恩報謝の生活をさせてもらい、そのお礼心がね生きがいのお礼心の奉仕こそが、この世での生きがいであると言う様に分からしてもらう。ですから和賀心。和の心と言ったような穏やかな心と言った様なものはですうね。
これは生れつき信心無くても持っておるけれども、それは只穏やかと言うだけでおかげにつながらない。この賀の心。賀びの心。信心のよらなければ頂けない、信心の賀びと和の心がひとつになって、おかげ頂くんだ。だから竹ケ原さん例えばあれがあぁ言うたからこうなったとか。あれがこうだったからこういう事は決してないんだと。結局自分自身のです。どのような中にあっても、自分の心が和賀心であれば手鞠のような心であれば、どちらへ転がしても喜びが出て来る様な心であればですね。
それが一切有り難しとして受けられる。もし有り難しと受けられない。そこにそのう生身を持っておる人間の業というか、人間の情と言うものがです。そうばかりはそうだと分かっておってもそうだと出来ん。腹が立つ情けないと思ういらいらする。そのいらいらするとか情けないとか悲しいとかと言った様な時です。はぁこれはその原因をあぁだからこうだから、この人がぐずぐずするからと言う様な事で、いらいらする様な事ではです。今こそ和賀心の欠げておる、それをはっきり見るようなものだから。
自分自身がそこに和賀心を求めて行く以外に、竹ケ原さんなかろうが。私がここの御結界からこうやって一人一人に、転がしておる信心というのは全てそれなんだと。ですからそこに焦点をおいたら、なぁにも情けないと思う事はない。又は苦しいと思う事もない。例えば苦しかっても有り難いのだ。第一例えばまぁ一つ例をとるとまぁ腹が立つという事なんか でもそうですよ。 腹が立つのはねこちらが和賀心でないから腹が立つんですよ。 賀びの心が今欠げておるぞと、神様が言って下さってあるようなものなんです。
いらいらもやもやする。それは今あなたの心の中に、和らぎ賀ぶ心がないからですよと。言う事になる。ですからその事によって自分の信心、精進不定というものを感じさせてもらい、分からしてもろうて、それこそ黙って受けて、黙って与える。 黙って祈って、黙って祈りを送って上げれれる、という様な心になればです有り難い。この四十八と、四十九は紙一重でしょうが。いわゆる幸と不幸は紙一重なんですよ。いらいらもいらん、悲し思いもいらん。
苦しいという腹が立つ事もいらん事を、腹を立てたりいらいらしたりしておる訳なんです。「信心は相縁機縁」とこう。確かに信心は相縁機縁ですねえ。わざわざ福岡辺りの人がここまで、それこそ十幾つもの教会を通り越してみえるんですから。やっぱり信心ちゃ相縁機縁だと思います。ですからそういうのですから、どうと言う事はありません。やはり、そこに縁が生じたところからですね。その縁をいよいよ有り難いものに生かしていくとゆう事が信心。縁はいなもの味なものと言う風に昔から言われますが。
それを否ものにせずに味なものにしていくところに信心がある。私と皆さんとこうして縁が出来た。その縁を有り難いものにいよいよ生かしていく。まぁ有り難い先生に言うならば、御縁を頂いたもんだという事に。たくさんの先生金光様の先生がござる中にも、大坪総一郎という自分のいわば心にぴったと会える人、どのような場合でもこの人に話せば心がすっきとする。有り難くなくても有り難くなれれる。本当にこの先生あって自分が、今日の幸せを勝ち得たという縁に、お互いが育てていかにゃいかんのです。
本当に悪縁とか腐れ縁とかになっちゃつまらん。縁は否もの味なものね味なものにひとつ育てていくところに、この相縁機縁というのを愛縁、神愛の愛、愛の縁。奇縁というのは奇跡の奇、不思議の縁という風にここを頂いたらどうだろうかと思う。不思議な不思議な事である。その不思議な事から合楽に御縁を頂いたが、相縁いわゆる神様との繋がりとゆうものを分らしてもらい。いよいよ幸不幸の別れ道に立っておった私が、それを全てを、有り難いものに幸せなものに、いわゆる末広がりの四十八の方へです。
持っていけれるようになるところに、私は有り難いおかげが受けれる。
我が子の病気でもという事は。我が子のとこう仰せられる。これは人の事ならね、さぁ薬よりか神様にと言えるかも知れん。さあ自分の子が今ここに苦しみ出した時に、さぁ薬はどこにあるの。さぁ病院に電話しなさい。と言う様な情が起こって来るのは当たり前だけれども、日頃の信心がしっかり頂いておればです。いわゆる相縁機縁ですね。神様のこの愛の縁というものを、段々深く分かって来れば来るほどです。そこでどっこいと言うて腹も据わる。そこんところのひとつの機微と心の動きの機微というものを。
言う事を聞かん時放って置く様な心持ちと仰っておられる。「もうあげな奴はもう知らんぞと。そげん言う事聞かんなら構わんぞ」と言う様な心そう言う様な心でですね。神様へ縋ってやれと仰る。そういう心になって縋ってやればおかげになると、おかげが受けられるとこう仰っとられます。小西さんに私がお取次させて頂いたそれがそうです。長い久しゅう御無礼しておったから。さぁ夜中に途端の子供の苦しみを見てから。さぁたまらんものですからすぐに病院に。さぁ電話かけたけれども出らない。
さぁ朝までのその焦躁というものは大変な苦しみであった。さぁ夜が明けたからすぐ病院に電話かけて来てもろうた。「これははよう手術せないかん」と言われた。時に初めてはっととその、はぁ手術せにゃならんとは大変な事になった、子供も嫌がるじゃろうが親も嫌。ほんに金光様に以前参りよったけん、金光様にお参りをしてもう手術せんでん助かるばいと言わるごとありゃ、有り難い事じゃけんでお伺いをして来ようというて、初めてそこに金光様が浮かび上がった。
いわゆるまさしくここに狼狽えておる訳です。けれどもそこにお取次を頂いたという事によってですね、一辺ポンと突き放された感じである。それは医者が手術するというのじゃから手術せんにゃごて、あぁあというてがっかりするごとたった。そげなこつなら参ってこんでん良かったというごたる顔をする。そこに次々と御理解頂いていって最後にです。けれども小西さん安心しなさい。安心して医者にかかりなさい。医者が手術すると言や手術させてもらいなさい。
私はそこんところをお願いするから。手術をしても薬を飲んでも注射をしても、そこの注射の打ち違いが無いように薬の盛り違いのないように、又は手術をされる先生のいうならメスの先にもです。中にも神様のお恵みを受けて手術させてもろうたら安心じゃと、それで参ってよかったと言う。そういう信心からですよお互いがね。そういう信心から一つそのう四十七節にも有りますような「祈れ薬れにすればおかげも早いが、薬れ祈れにするからおかげにならぬ」と仰る様なところをです。
そういう事の体験から分からしてもろうて、そして幸と不幸は紙一重である。自分の心次第でです。四十八にも頂ける四十九にも頂けると。そこでここで思わして頂かねばならん事はです。いわゆるこの始終苦と言う事がです。いつも自分はこう言う難儀をかろうておる。こういうその十字架を背負っておると。いわば自分がそういう星の元に生まれておるんだと言う様な考え方ではです。始終苦であるからそれをです。私共が始終苦ではなしに、いつも修行精神を旺盛に持っておけという事です。
いわば楽はせんぞという心になっておれという事です。そこに苦労と言わば修行という事の事は同んなじあっても、その性質が違うんです。修行という事には喜びが伴うおかげが伴うお徳が伴う、苦労にはやはり苦労である。苦しい事のみ多かりきという事になる。これはねどんなに儲けだしても有名になってもです。それこそ林芙美子じゃないけれども、やはり自分の一生というものを振り返ってみたら、苦しき事のみ多かりきだったんですよ。金を持ちゃ持ったでそこに苦しみがあったんです。
有名になりゃ有名になったでそこに苦しみがあったんです。だから振り返ってみたら苦しい事ばぁっかりだったんです。これが信心の無い者の姿。四十九である。それを私共が四十八にする。そういう苦労をひとつの飛躍する土台とでも言おうかね。より和賀心にならして頂く為の修行として、受けさしてもらうところにいつもが有り難いという事になる。四十八と四十九というのは紙一重、幸と不幸は紙一重。そこの紙一重のところをいつも幸せ、本当に信心頂いておるという事がです。
合楽にご縁を頂いておるという事が、有り難いと分からして頂く為にです。やはり我が子の病気でもとこう仰る。自分に身近な難儀な時でもと、切実に難儀を感ずる場合であっても、そういう時に難儀を難儀とせずにね。一にも二にも三にも神様という神様一途の生き方さえいきゃ、おかげが受けられるとこう結んでおられますように、そのおかげがです。はぁこの事のおかげで自分が一回り大きゅうなれた。
いわゆる和賀心が本当なものになったと言う様な、おかげにして行かなければいけません。そこに信心の楽しみがある訳です。どうぞひとつ竹ケ原さんが頂いております。ここで頂くものは親先生はいつも私の前に、丸い手鞠を転がして下さってあるようなもの。これを会得してくれ。これを自分のものにしてくれと言うておられる。だから腹が立つときや、情けないと思う時には。又はいらいらする時には。
今こそ和賀心を欠いでおる時だと思うて、先ず御神前に座りなさい。先ず御取次を頂きなさい。そして平常心になって、その先事を運ぶのはその位なゆとりを持たして頂く信心。そこにいわゆる絶対の信と申します。いわゆる絶対の信というものが、心の中に頂けて来るようになる。人じゃないそいう自分以外の事から不幸が起こって来るんじゃない。自分自信の心の中から不幸が起きて来るのである。と同時に自分の心の中から幸せが次々と生まれて来るのである。
ここのところここんところをひとつ取り違えないように、しっかり頂いて行かねばならん。今日は実は四十八節と四十九節というその事を頂いた中から、その我が子の病気でもという事をもってね。昨日御取り次ぎさせてもらった、小西さんの例をもってお話しさせて頂いた。竹ケ原さんの頂いておるその例を持って、この信心とは愛縁機縁という事をお話しした積りですけどね。
どうぞ。